──町さんは自宅にあったカシオトーンがきっかけで歌を始めたわけですが……珍しいですよね。
町あかり えっ、普通はないのかな? 家族の誰もピアノなんて弾けないんだけど、おもちゃとしてあったんです。マイクもなんであるのかわかんないような、ふる~いのがあって、それが壊れるまでずっと使ってました。歌うのは楽しくて好きだけど、機材にこだわりはないんです。それよりも物を作るのが好きで、小さい頃は絵を描いたり、今もライブの衣装は自分で作ったりしてるから、歌もその延長線上にあって、「歌は歌えば歌じゃん!」って思ってました。だから誰かに習うっていう発想がなくて、自分で曲を作って楽しく歌えたんです。
──人前で披露することはなかったんですか?
町あかり うーん、高校の時にフォークソング部の定期公演があって、それくらいかな。学校に軽音学部がなかったから、フォークソング部に所属してたんです。4、50年前からある伝統的な部で、演奏しないといけない楽曲が手書きの冊子に20曲くらい引き継がれてるの。吉田拓郎とか、チューリップとか。ほかの子たちはバンドでMr.Childrenとかaikoとか自由にカバーしてたけど、私はひとりでやってました。
──オリジナル曲のデモテープを事務所に送り始めたのは何がきっかけだったんですか?
町あかり 小さい頃によく自分で描いた絵本を友達に見せてて、デモを送ったのも、「曲作ったから聴いてー!」くらいの感覚でした。はっきりと自分の好きな音楽があって、オリジナル曲も楽しく作ってたから、曲作りで悩んだことはなかったです。以前リリースした「横浜のすずめ」とか、新しいアルバムに収録している「すれっ枯らしのショーガール」とか歌謡曲っぽいテイストの曲を多く入れてた気がします。
──何社くらいに送ったんですか?
町あかり 20社くらいには送ってたと思います。オーディションとか音楽関係の情報サイトとかで歌を聴いてくれそうな会社を見つけたら、CDに焼いて送ってました。写真も普通に撮って、履歴書も書いて、いま思うとちょっとした就職活動みたいだったなあ。私、すごいお笑いコンビのオードリーが好きで、そういえばオードリーの事務所ってどこなんだろうって思ったのがいまの事務所にデモを送ったきっかけです。調べたら歌も聴いてくれるみたいだったから。何社か返信はあったけど、連絡を取り合って実際に会ったのはいまのプロデューサーさんだけです。なんか30万円払ったらCD作ってあげますみたいな、いかがわしい会社もあったなあ。笑
──面接とかもあったんですか?
町あかり 面接というか、ファミレスで話しただけなんですけど、最初に、「俺は一切仕事取らないよ。それでもよければ一緒にやっていこう」って言われたのすごい覚えてます。それは仕事しないよって意味じゃなくて、私がきちんとやっていれば自然と仕事は来るよっていう意味だったんですけど、私は別に誰かに曲を聴いてもらいたかっただけで、CDデビューとかも考えてなかったので、別にいいやと思ってました。いまは本当にホームページに仕事が届くようになりました。
──仕事を取らないとはいえ、どうやって「町あかり」としての活動を始めたんですか?
町あかり オリジナル曲を作ってるならライブをやろうって提案されて、月に1回ライブを始めたんです。でもお客さんは2、3人とか。すごい時はプロデューサーさんしかいないこともありました。の中で、私は「もぐらたたきのような人」みたいなオリジナル曲を歌って……。
──すごい。でもそこからメジャーデビューするまでの道のりが全く見えません……!
町あかり プロデューサーさんとは時々会ってお茶飲んで、とにかく曲を作ってライブを見てもらうみたいな期間が3、4年くらいあって、その頃は正式な所属とかではなかったんです。それでもずっと面倒を見てくれて。2014年の年末、雑誌の「宝島」にインタビュー記事が掲載されたんですけど、それを見たビクター(エンタテインメント)の、今のディレクターさんから直接連絡を頂きました。
──わー、本当にプロデューサーさんの言った通りでしたね。ちなみにライブをする時に参考にされた方はいますか?
町あかり 個人的に岩崎宏美さんとか八神純子さんが好きで、ライブを観に行ったりはしてたんですけど、単純に好きだなっていうだけです。誰かのライブよりも、何かで面白い言葉を見つけたりした時の方が参考にしようって思います。"私の作ったもの"が好きだから、べったりそのまま誰かにならないようにって思ってるんです。